失業問題における「自己責任」論は、間違いです。


私は大学時代から、ずっと「自己責任」という言葉に疑問を感じてきました。


・「自分が選んだ行為の結果については、自分が責任を取らないといけない」という命題は、論理的には間違っているのではないか?
・そもそも自己責任とはどういう意味なのか?


これらの疑問に対する今のところの私の答えは、

「自己責任」論〜「自己責任」とは何か〜
「自己責任」論(2)〜「自己責任」に隠された意味〜


をご覧ください。


さて、最近派遣の雇い止めなどに絡んで「自己責任」論が盛んです。しかし私は、失業やワーキングプアの問題を語る際に「自己責任論」を持ち出すこと自体が間違いである、と考えます。


「自己責任」という言葉自体に含まれる誤謬


手前味噌ですが、「自己責任」論〜「自己責任」とは何か〜で書いたことを以下に引用します。

○責任の成立条件*1


責任は、本来他者に対して負うものです。

例えば世界にひとりしか人間がいなかった場合、その人がどんなことをしても責任は負いません。その辺の物を壊して回っても、「被害」は生じるかもしれませんが、「責任」は生じません。

なぜならば、「誰かによって責任を追及される可能性がないから」です。

責任が成立するためには、「自分以外の誰か」が必要であり、また本来責任は「自分以外の誰か」に対して負うものなのです。
(中略)
責任というものは「自分以外の第三者」に対して負うものですから、「自分に対して負う責任=自己責任」という言葉はそもそもおかしいのです。自分に対して何か悪いことが起こった場合、別にそれを取り立てて「責任」と言う必要はないのですから。


>責任というものは「自分以外の第三者」に対して負う

おそらく「責任というものは「自分以外の第三者」に対して負う」というと、「責任って自分が負うものなんじゃないのか?」と思われる方がおられると思うのですが、これについて若干補足します。
たとえば交通事故で損害賠償責任を負ったとします。この場合、損害賠償責任は「事故の被害者に対して」「加害者が」負うものです。責任は「自分以外の第三者に対して負う」というのはこういうことです。


さて、もし「自己責任」という言葉が「自己に対して負う『責任』」という意味ならば、上記の責任の性質(=他者に対して負う)と真っ向から反します。これはすなわち、


「自己責任」は「責任」ではない

ということを意味します。

では「自己責任」とはいったい何なのか?


これは「自己責任」論(2)〜「自己責任」に隠された意味〜で書いたことですが、

自己責任とは、他の誰も責任を負わない結果として本人が負わされる負担


です。自己責任は責任ではありません。「負担」です。この「負担」について上記エントリーを書いた当時は

「自己責任」という言葉はself-responsibilityとown riskの2つの意味を含んでいる


というように考えていましたが、現在ではown riskという意味しかないと考えています。
つまり、端的に言ってしまえば「自己責任」とは「危険」と同義なのです。

この「危険」という言葉についてですが、私はこの言葉を法律の「危険負担」から持ってきています。危険負担というのは、たとえば家の売買契約をしたあと、引渡しが終わる前に雷で家が焼けてしまったとき(=売主にも買主にも帰責性がない状態で目的物が滅失したとき)に、家の買主は代金を支払わねばならないか?という問題です。普通は契約にこのような場合はどうするかを定めているのですが、もし定めていなかった場合、民法上は買主は家を手に入れられないにもかかわらず、代金を支払わねばなりません。買主は「目的物の滅失という危険」を負担するというルールになっているのです。

「自己責任」と言う人たちに言いたいこと


さて、ここまでの議論は、すべて次の主張を引き出したいがためです。


雇い止めをされた派遣労働者や失業者に対し、「自己責任だ」という人がいます。もし彼らが自己責任という言葉を「責任」という意味で使っているのなら、派遣労働者たちが「悪いこと」をしたので「責めている」ということになります。


しかし、派遣労働者たちは「悪い」のでしょうか?
派遣という道を選ぶ(そして雇い止めされる)ことは「責められるべきこと」なのでしょうか?



現在の派遣を取り巻く問題の原因は、池田信夫先生が指摘されているように(失業は「自己責任」ではない)労働力の供給過剰にあります。そして、派遣労働者は「労働力の供給過剰という危険」を負担しているだけなのです。
彼らに「責任」は、ありません。


派遣労働者を責めるな。非難するな。


派遣労働者であること」も、「その結果不安定な地位にあること」も、「不安定な地位からの救済を求めること」も、彼らの「責任」ではありません。
労働力の供給過剰という現状は彼らが負うべきリスクであるとはいえても、彼らは何ら非難されるいわれはないのです。


そしてもうひとつ、不幸にして現在職を失っている方々にも。


何も悪いことはしていないのだから、自分を責めるな。


自分の自己責任論に欠けているもの。でも書いたことですが、大切なのは「現実をどう捉えるか」ということ。解雇されてしまったという現実は、法的手段に訴えない限り変えられません。しかし「その現実をどう捉えるか」は自分が自由にコントロールできます。解雇されてしまったという現実に対して「派遣の道を選んだ自分が悪い」と考えるのは自由です。しかし全く同じ現実でも「もう過ぎてしまったことは仕方がない。とりあえずいい仕事を見つけるために色々探してみよう」と考えることもまた、自由です。
自分を責めたところで、何も変わりません。過ぎ去ったことはもうコントロールできないのですから。むしろ責める理由もないのに自分を責めるという点では、「自己責任」論と同じく有害ですらあります。

明日どうやって食いつなごうと考えている人に向かって私がこんなことを言っても、全く説得力がないかもしれません。
しかし「自分を責める」ということにはデメリットしかないので、それだけはしない方がいいと思います。

最後に


ずっと前から考えていたことを、ようやく文章にすることができました。試験期間中だったので我慢していましたが、早く書きたくて仕方がなかったです。


「自己責任」という言葉を使うこと自体は、別にいいと思います。しかしこの言葉を使う前に

・「自己責任」とはどういう意味なのか?
・「自己責任」という言葉が相手にどのような影響を与えるのか?


ということを考えるべきだと思います。


関連エントリー今日の失業問題における議論の本質

*1:ホセ・ヨンパルト著 「道徳的・法的責任の三つの条件」 2005年 6頁