「自己責任」論〜「自己責任」とは何か〜

自己責任って何?


これは、大学時代からずっと考えているテーマです。

  • 株で損した場合、それは「自己責任」といわれます。
  • イラクに入国して誘拐されても、自己責任といわれます。
  • 就職できなくても、自己責任といわれます。
  • ニートであることも、自己責任といわれます。


いったい「自己責任」とは何なのでしょうか?また、自己責任が問題となるときにはなぜ「自己責任ではない」という意見も同時に主張されるのでしょうか?


僕が今まで考えてきたことについて述べてみようと思います。

一般的な意味での「自己責任」への疑問

「人が自由な意志に基づいて自ら選択したのだから、その選択の結果についてはその人が責任を取らなければならない」


おそらく、これがいわゆる「自己責任」の内容の一般的な説明といえるかと思います。そして世間ではこれは「論理的」であり、また「当たり前」として受け入れられていると思います。

しかし僕はどうしても納得がいきませんでした。

「自分が」自由な意思に基づいて選択したら、なぜ「自分が」その責任を取らなければならないのか?


僕には「自分の自由な意思」と「自分が責任を負う」とがリンクする必然性が見いだせません。まるで「ダメだからダメ」のような、論理的っぽい言葉が使われてるけどその実まったく説得力のない文章のように思われるのです。


契約の場面でも、似てるけれど少し違う議論が出てきます。

「当事者が自由な意思に基づいて締結したのだから、当事者は契約に拘束される」

このように、契約の拘束力は一般に当事者の自由意志によって説明されます。しかし上の責任と同様、これについても「なぜ当事者が自由意志に基づいて結んだ契約に拘束されないといけないのか?」という疑問がありました。僕には全く論理的ではないように思われたのです。
だから学部生の時に、ちょうど懸賞論文の募集ポスターを見かけたのをきっかけに、「契約の拘束力」というテーマで論文を書いたことがあります。*1


僕の問題意識がどれくらいの人に理解していただけるかは分かりません。しかしとりあえず、以上のような問題意識を基に考えてみたことを述べてみようと思います。

「論理的」な「自己責任」の説明


「自由な意志に基づいて自ら選択した→その選択の結果には責任を取らなければならない」という文章は全く論理的ではない、と書きました。

ではこの文章をどう理解すれば論理的になるのでしょうか?


あるときハタと気づいたことをそのまま書いてみます。


まず僕も特に疑問を差し挟まない2つの前提があります。

前提1:他人の選択によって発生した結果については、自分はその責任を取る必要はない
前提2:何か(悪い)結果が発生した場合は、誰かが*2必ずその責任を取らなければならない


これらを使って自己責任を説明してみます。

ある人が自由な意志によって選択をして、何か悪い結果が発生した
→他人は、自らの選択によって発生したわけではない結果については責任を取らない
 +しかし誰かは必ず責任を取らなければならない
他の誰も責任を取らない結果、その選択をした人が責任を取る(負担を負わされる)ことになる


このように理解すると、自己責任とは何か、ということが見えてきます。

すなわち、

自己責任とは、他の誰も責任を負わない結果として本人が負わされる負担


自己責任という言葉を論理的に説明しようとすると、非常に消極的な説明しかできないのです。
その人がした「自由意志に基づく選択」は「他人がその選択に基づく責任を取らない」という説明のためにしか役に立たず、必ずしも「その人が」責任を取る理由にはならない*3ということが言えるかと思います。

なぜ「自己責任」は不自然な説明しかできないのか?〜責任の成立条件〜


以上のように自己責任という言葉が消極的な説明しかできないのは、「責任」という言葉について考えてみると分かります。


道徳的か法的かを問わず、責任が成立するためには以下の3つの条件*4が必要です。

1.第三者(=自分以外の者)の存在
2.意志の自由
3.何かによって拘束されていること


1.第三者の存在

責任は、本来他者に対して負うものです。
例えば世界にひとりしか人間がいなかった場合、その人がどんなことをしても責任は負いません。その辺の物を壊して回っても、「被害」は生じるかもしれませんが、「責任」は生じません。
なぜならば、「誰かによって責任を追及される可能性がないから」です。

責任が成立するためには、「自分以外の誰か」が必要であり、また本来責任は「自分以外の誰か」に対して負うものなのです。


2.意志の自由

責任論における「意志の自由」とは、「2つ以上の可能性を選ぶことができる」ということです。

何かについて意思決定する場合、「あることをするかしないか」という二択は必ずあります。この二択が存在しなければ、責任は成立しません。例えば、誰かに脅されたために「あることををしない」という選択肢が存在しなかった場合は、責任は負いません。

逆にいえば、意志の自由があるということは責任が成立するための必要条件です。もっとも、「責任を誰が負うか」という点について従来の説明では問題があるという点については、上に述べたとおりです。


3.何かによって拘束されている

これはすなわち、「その行為をしてはいけない(しなければならない)」という道徳や法律といったものがあり、それによって人の意志が拘束されていることが必要ということです。
たとえば、人の物を盗んではいけないというルールがなければ、たとえ他人の物を盗んでも責任は発生しないということになります。


つい全部書いてしまいましたが、なぜ「自己責任」は不自然な説明しかできないのかについて考えるためには、「責任が成立するには第三者の存在が必要」ということだけで十分です。

責任というものは「自分以外の第三者」に対して負うものですから、「自分に対して負う責任=自己責任」という言葉はそもそもおかしいのです。自分に対して何か悪いことが起こった場合、別にそれを取り立てて「責任」と言う必要はないのですから。
自分以外の第三者に対して負うものである責任を、無理に「自分に対して」負わせようとしたので、「自分以外の第三者が負わない結果自分が負う」というような説明になってしまうのだと思います。

なぜ「自己責任」という言葉が生まれたか?


ネットが普及する前には「自己責任」という言葉はあまり使われていなかったように思います。

ではなぜネットが普及してから「自己責任」という言葉が使われるようになったのでしょうか?


責任は第三者に対して負うものという理由について、「責任は、自分以外の第三者によって追及されるものだから」と書きました。
だとすると、ネットが普及してから爆発的に「自己責任」という言葉が使われはじめたのは、「責任という名において誰かを追及したかったから」ではないでしょうか。

ややこしいですが、本来は他者に対して負うものである責任を「自分に対して」負う=自己責任といって非難するために、「自己責任」といっているように思われます。


次回は、以上のように自己責任をとらえることにより「見えてくるもの」、について書いてみようと思います。

次:「自己責任」論(2)〜「自己責任」に隠された意味〜

*1:辛うじて入選して7万円ゲットしました。

*2:自分とは限らない

*3:ただし自由意志が責任を取る理由になることがあるということは否定しない

*4:ホセ・ヨンパルト著 「道徳的・法的責任の三つの条件」 2005年 6頁