「自己責任」論(2)〜「自己責任」に隠された意味〜

前回のまとめ


前回のエントリー(「自己責任」論〜「自己責任」とは何か〜)では、自己責任を以下のように定義しました。

自己責任とは、他の誰も責任を負わない結果として本人が負わされる負担


一方、従来の(世間一般の)自己責任についての考え方は、以下の通りです。

「人が自由な意志に基づいて自ら選択したのだから、その選択の結果についてはその人が責任を取らなければならない」


この2つのニュアンスの違いがお分かりでしょうか。

僕のいう自己責任は「結果に対する全ての責任から他人が負う責任を引いた残りの部分」が自己責任の対象になるのに対して、従来の自己責任の対象は「自らが自由な意志に基づいて選択した行為による結果」なのです。


このニュアンスの違いから、見えてくるものがあります。以下法律の概念を使いながらこの点について書いてみようと思います。

まずは「責任」について整理


まず「責任」という言葉について少し整理してみようと思います。

せき‐にん【責任】

[1] 自分が引き受けて行わなければならない任務。義務。

[2] 自分がかかわった事柄や行為から生じた結果に対して負う義務や償い。

[3] 〔専門〕 法律上の不利益または制裁を負わされること。狭義では、違法な行為をした者に対する法的な制裁。民事責任と刑事責任とがある。


大辞林より引用。


[1][2]はいわゆる道義的責任と呼ばれているものです。
[3]が、法的責任です。


道義的責任と法的責任の関係は議論があるところですが、法的責任が道義的責任にほぼ包含されているということにしておきます。

民法における「過失責任主義


法的責任が道義的責任に包含されているという前提のもとで法的責任に関する議論は道義的責任にも応用できるものとし、以下議論を進めます。



民法の大原則のひとつに、「過失責任主義」というものがあります。

過失責任主義とは、「過失なければ責任なし」という原則のこと


です。
ここで注意しなければならないのは、「過失あれば責任あり」ではない、ということです。あくまで過失がなければ責任を負わないということであり、過失があるから責任を負うのではないのです。

過失があっても責任を負わない例というのは、いくらでもあります。例えば、民法でいうところの不法行為責任はその要件として

1.故意または過失
2.違法な権利侵害
3.損害の発生
4.因果関係

が必要です。この4つの要件を満たして初めて不法行為責任が認められます。すなわち、1番目の故意または過失という要件を満たしても、違法な権利侵害がない、または因果関係がない場合には、責任は認められません。

具体例を挙げると、

誤って窓ガラスの方に石を投げてしまったが、自分が投げた石がガラスを割る前に他の人が投げたボールがガラスを割った。


この場合過失はありますが、過失と損害との間に因果関係がないため、石を投げた人に不法行為責任は成立しません。



○まとめ

・過失があるからといって責任があるとは限らない(過失と責任は全くの別物)
・過失がなければ責任は生じない*1

ところが、「自己責任」は自らに過失がない場合や、法律上は責任(不法行為責任)が発生しないような場合にも言われます。*2
例えば前のエントリーの冒頭に挙げた

・株で損した場合、それは「自己責任」といわれます。
イラクに入国して誘拐されても、自己責任といわれます。
・就職できなくても、自己責任といわれます。
ニートであることも、自己責任といわれます。

などがそうです。


これらの場合、「自らが自由意志に基づいて招いた結果に対する責任」である「自己責任」という言葉によって、覆い隠されている意味があるのです。

「自己責任」という言葉によって覆い隠されている意味


最初に僕の言う「自己責任」と一般的な意味の「自己責任」と言う言葉のニュアンスの違いについてふれました。

果たしてこのニュアンスの違いはどこから来るのでしょうか。


それは、

「自己責任」という言葉には、自らに過失がなく、責任を負わない場合も含まれているにも関わらず、そのような場合についても「責任」という言葉を使っている


ということなのです。


例えば株で損した場合についてみると、自分が買ったときより株価が下がったときに損をするわけですが、「株価が下がる」ことについては何ら自分に過失はありません。*3
したがってこの場合は本来「責任」を負う場面ではないのです。

また、紛争地帯であるイラクへ行って誘拐されたという場合も、過失(というか故意)があるのは誘拐した犯人であって、誘拐された人にはありません。
誘拐された人には何ら「責任」はないのです。



また少し法律の概念の紹介をしてみようと思います。

民法では契約当事者において両方に何ら帰責性なく目的物が滅失してしまった場合についての規定を置いています。

具体的に説明すると、

建物の売買契約を結んだところ、相手に引き渡す前に落雷による火事によって建物が全焼した。

この場合、買主は建物の代金を支払わないといけないか?


という場合の話です。

実はこの場合、民法534条1項によれば、買主は建物が天災によって(売主にも買主にも帰責性のない理由で)燃えてしまったにも関わらず、代金を支払わねばなりません。*4

このことを、「買主が危険を負担する(危険負担)」と言います。


さて、僕が言いたいことがお分かりになった方もおられると思います。

すなわち、

誰にも過失(帰責性)がないときに発生するのは「危険」であって、「責任」ではない


のです。

言い換えると、

「自己責任」はown riskという意味でも使われる

ということです。

このown risk=危険というのが、「自己責任」という言葉によって覆い隠されている意味、になります。


つまり、

「自己責任」という言葉はself-responsibilityとown riskの2つの意味を含んでいる


ということなのです。

「自己責任」について気をつけるべきこと


「自己責任」という言葉には「責任」という用語が含まれています。だから「それは自己責任だ」と言うときには、どうしても非難する意味が入ってきます。
しかし非難されるのは責任を負う場合であって、危険を負担する場合には何ら非難されるいわれはありません。


最近、「自己責任」という言葉が一般的に使われるようになってきましたが、過失がなく、危険を負担しただけのような場合にも「自己責任」という言葉によって非難するシーンが見受けられます。

また、責任の重さは過失の程度によって変わります。法律的にも、過失は一応あるけれどもほとんどない場合には、その分賠償金の額は減額されます。
したがって少ししか過失がない場合に全力で非難するというのはおかしいのです。



ニートもなりたくてなった人はほとんどいません。いわゆるロスジェネ世代の人たちはベビーブームの時に生まれ、大量の競争相手の中でもまれ、さらにバブル崩壊後の不況による就職氷河期にさらされ、ニートになっていきました。
彼らを果たして「責任」という名で非難していいものでしょうか?彼らは「生まれた時代」という危険を負担しただけなのではないでしょうか?



「自己責任」という言葉は弱者を切り捨てるときにも使われます。

しかし果たしてその弱者は自らの「責任」によって弱者になったと言っていいのか、単に危険を負担しただけだけではないのか。「自己責任」というレッテルを貼る前に一旦立ち止まって考えるべきだと思います。



「自己責任」が広く使われる時代だからこそ、社会的弱者に対するまなざしを大切にしなければいけないのではないでしょうか?

*1:法定の無過失責任はとりあえず置いておきます

*2:もちろん道義的責任は法的責任を問われるほど強度の違法性がない(または違法ではない)場合ですが、「道義に反する」という点を違法と読み替えることとします

*3:他人に過失がある場合は不法行為責任を追及できます。今ライブドアが株主に訴えられていますよね。

*4:もっとも現実には登記や現実に引き渡されたあとでないと支払う義務は発生しないというように解釈されていますし、そもそもこの規定は特約により排除することができます。