「学歴」論における議論錯綜の原因


学歴についての議論には、なぜか

今はもう学歴には意味はない
今でも学歴には意味がある(なぜ学歴が問題なのか(色々とまとめてみた)参照)


という両方の意見が出てきて、常に両方とも同じくらい争っています。

大抵議論には落としどころみたいなものがあるのに、この議論に関してはいつまでも堂々巡りをしているようなので、これは何でかな〜と思って少し考えてみました。


このJ-CASTのニュース(京大卒「就職難民」が大量発生 これは大学や社会が悪い?)がよく分かりやすかったので、引用してみます。

「高学歴ノーリターン」「格差社会の結末」などの著書がある兵庫県立大学大学院応用情報学研究科の中野雅至准教授はJ-CASTニュースに対し、高学歴者が、学歴に対するリターンを求めていることに「こんな時代になったのか」と非常に驚いている。これまで高学歴者は学歴に対するリターンよりも、受験戦争を勝ち抜いてきたという人生の拠り所や、変なところに就職しなくていい「保険」と感じる人が多かった。社会人になったら学歴は関係ないことなどわかるはずなのだという。それでも、高学歴者にリターンがあってしかるべき、という意見が出るのは、

「他の学生よりも余裕を持っていいはずの高学歴者でも、追い詰められているのかな、と考えざるを得ない」

と話している。


なぜ学歴に関する議論が錯綜するのか、結論から言うと、

  • 採用の段階では今でも学歴を見ることにつき合理的な理由がある
  • 一方、採用後働き始めてからは学歴にはほとんど意味がない
  • 以上の2つをごっちゃにしている


からなのですね。

上のJ-CASTニュースで言えば

変なところに就職しなくていい「保険」と感じる人が多かった。

というのが採用段階の話で、

社会人になったら学歴は関係ないことなどわかるはず

というのが働き始めてからの話なわけです。


働き始めてから高学歴者であることを理由に他の人と何か違う待遇を受けようと思う人がもしいるのならば、それは小飼弾氏のいうように「死んでも直らないバカ」です。ていうか死んでいいと思います。
京大生だって、実際に働き始めてから京大出身であることを周りにアピールして何か便宜を図ってもらおうと考える人はほとんどいないはずです。仮にもし高学歴であることを理由に何か言うとしたら、「そんな誰でもできるような仕事は他の人にやらせて、もっと難しい仕事をさせてくれ」くらいでしょうか。


学歴について語るときは、採用前と採用後とでは当事者が求めるものが相当異なるので、ごっちゃにしない方がいいし、ごっちゃにすると結局議論が全くかみ合わない、ということになります。



働き始めてからの高学歴者についての扱いについては、日本では上司のマネジメント能力が不足しているがゆえにその高学歴者の能力を発揮できていないという現状も指摘できるかと思います。
しかしこれもすべて上司の責任かといえばそうではなくて、日本ではまだまだマネジメントについては課長などの中間管理職の自助努力に任せているところが多いため、課長が自分の仕事を抱えているのにさらに部下についてまで気を回す余裕がないためだといえるのではないでしょうか。


「管理職は何を管理するのですか?」と聞かれて「部下」とか「人」とか言ってるようでは、まだまだダメだと思います。