なぜ学歴が問題なのか(色々とまとめてみた)
明日の刑事訴訟法の勉強しないといけないけれど、書いてみます。
忙しい人のために議論の要旨だけをまとめると、たぶんこんな感じ。
没落エリートの出現―ビジネス社会から疎外される高学歴就職難民たちー - 女。京大生の日記。
↑への小飼弾氏の反応↓
学校ってバカを治療してくれんのか - 404 Blog Not Found
- 高学歴大学生たち=死ななきゃ直らないバカ。そもそも高学歴=エリートと思ってるのがおかしい
- (毎年京大生も東大生もいっぱいいるので、君らはその他大勢に過ぎない)
- また、高学歴=「人が作ったゲームの高得点者」に過ぎない
- 高学歴者を優先的に採用しろというのはかつてのゲームが得意な人を採用しろということ
- しかし今求められているのは、ゲームそのものを作れる奴か、最高得点以上の点数をとっても最高得点分の給料で満足してくれる奴のどちらか
- 高学歴卒業者=学歴しか人に言えるものがないバカはいらない
- 就職難←頭いいんだから自分で解決しろよ
↑へのid:iammgによる応答↓
弾氏への応答 - 女。京大生の日記。
- 弾、君はすごいよ。だって中卒で成功してるんだもん。確かに社会的成功に学歴なんて関係なくて、成功できないのは個人の問題かもね。
- しかしid:iammgという個人がいるのは共同体のおかげ
- かつての教育は官僚や会社人として働ける人材を育成するためにあり、うまく機能していた
- しかしいまやそのシステムは時代遅れ
- なぜなら現代の、雇用が流動化した時代では主体的に行動できる人間が大事になっているから
- そのような人間を作ることが出来る教育制度に変えるべき
- ロスジェネや没落エリートは、このような社会構造の変化に対応していない教育の犠牲者
- 弾のように社会の構造に関係なくひとりで生きてけるような人間ならいいけど、そうでなかったらどうする?
- 個人を変えるのも大事かもしれないけど、これからは社会を変えていかないとね
なぜかはてな村では学歴に関する話題が定期的に吹き出すので、そもそもなぜこの話題が注目を集めるのか、その背景についてとはてな住民の反応のまとめ。
- まず世の中には学歴がある人とない人がいる
- 高学歴だと会社での採用や給料で優遇されることがある
- さらに何だかんだで世の中にはまだ学歴でその人を判断する傾向がある
(ここからブコメ等の反応。分岐あり)
分岐1
- ↑学歴のない人が嫉妬
- id:iammgは京大生=高学歴
- 何か京大生が就職できないのは社会のせいだとかいってる
- 何言ってんの?
分岐2
- 何書いてるかよくわからん
分岐3
- 若いねぇ
・・・すみません、あれだけ雑多な反応を分類しきるのは無理でしたorz
僕個人の意見としては、基本的な方向性はid:iammgさんと同じですね。ただし前提がいくつか異なっていますが(例えばロスジェネと京大生が就職できないのは背景が違うんじゃないの?とか京大生で就職できないやつはほとんどがダメ人間な奴やろ(経験談)、とか)。以前私たちが社会に貢献しなければならない理由を書いたのも、東大とか京大入ったやつは自分の力だけでそれだけの能力身につけられたと思うなよ?&自己責任じゃ片付けられない問題が今の社会には増えつつあるんだから、能力ある人間が社会を変えていかないといけないよね、という思いがあったからです。(ただし、何が問題で、どう変えていかないといけないかについてはまだ具体的には書いていません)
仕事をしていく上ではコミュニケーション能力は大事だよね、という思いがある一方で、やはりそれ以外の能力が高い人間は評価されるべきという思いもあります。
今の日本社会ではコミュニケーション能力が高い≒世渡り上手→出世みたいな感じになっていて、本当に価値を生み出せる人が埋もれてしまっているのではないでしょうか。
今の教育も、基本的な方向性は間違ってないのですが、やり方が全く進歩していないという印象です。「なぜ勉強しなければならないのか?」いう子供の問いに即答できる先生はどれだけいるでしょうか。
というわけでとりあえず以上の議論は終わったことにして、学歴について思うことを少し書いてみようと思います。
学歴と仕事の関係
学歴がまだ日本の社会の中で見られることがあるのは上に書いたとおりですが、これはやはりある程度合理的な理由があるからです。
まず社会的成功=地位や名誉や高収入、ということにします。
そして社会的成功を手に入れるためには、一流企業に入るのが近道です。
一流企業は、優秀な人材を欲します。
さて、ここで誰を採用するかというときに学歴が出てくるのですが、会社のいう優秀な人材=仕事が出来る人間であり、高学歴=仕事が出来る人間という図式が成立する可能性は、やはり高いのです。
企業が採用のときになぜ学歴にこだわるかといえば、
学歴がある
→勉強が出来る
→まじめに物事に取り組める、言われたことを言われたとおりにできる、努力することができる、事務処理能力が高い、論理的・分析的思考ができる
などの、仕事をする上であると便利な能力が備わっている可能性が高い
(そして何回か面接しただけじゃその人が仕事できるかどうかなんてわからない)
からです。
すなわち、仕事ができるということと勉強ができるということは、ある程度重なっているのですね。
ただし、この重なり具合は業種によって異なります。どんな仕事をするかで「仕事ができる」ために必要な要素が変わってくるからです。
小飼弾氏が「学歴なんて関係ねーよ!」と主張するのは、プログラミングの世界では「効率のよいプログラムが書ける=仕事ができる」ということなので(たぶん)、今の学校で学ぶこととの重なり合いがほとんどないからではないでしょうか。
確かに高学歴ならば仕事ができる、とは限りません。しかし高学歴と仕事ができるということが無関係だとは言い切れないのです。
つまり学歴なんてその人の能力の証明にはほとんど使えないけれど、外から判断する立場の人からすれば便利な道具のひとつ、ということになります。この意味での学歴の意義は、どの程度重視するかの程度は下がっていくとはいえ、これからもなくなることはないでしょう。
ちなみに僕が「できる人」の3つの条件というエントリーを書いたのは、学歴はその人の能力を表しているわけではないとして、では結局「できる」って何?という問題意識が背景にあります。
さて、社会に恩返しするためにも、まずは明日の試験を乗り切らないと・・・