勉強ができる子がいじめられる理由

それ以来、私には「頭のいい子」という称号がついて回った。

賞賛の意味でそう呼ばれることが多かったが、「変わってる」「すかしてる」という意味での蔑称として呼ばれることもあった。

だから、私は「頭がいい」と言われることが、どうしても好きにはなれなかった。「まじめ」「いい子」という呼び名も、同じ意味で嫌いだった。

小学生の同調圧力はあなどれない。飛び抜ける子は、どうしても叩かれる。

(ちなみに、その後、これに近い思いを味わったのは、初めての東大卒・女性課程博士として前の会社に勤め始めたときだった。)
「勉強ができる」という蔑称


私自身同じような経験があるので以前から書こうと思っていたのですが、色々な問題が複合しているのでどう切り分けたらいいかわからず、放置していました。
今は少し時間があるので、試しにまずは「学校で勉強ができる子がいじめられる理由」にフォーカスして私の考えを書いてみようと思います。

個人的な経験


私は小学校の頃から、いわゆる「勉強のできる子」でした。小学校のときは教科書なんか開いたこともないけれど、授業を1回聞くだけで試験は余裕で100点取る人間でした。これはいずれ書くと思いますが、私は同級生が10人前後、全校でも40数名というド田舎で小学校生活を送っていましたので、あまりこの頃はいじめらしきものはありませんでした。

勉強ができることによるいじめ「らしきもの」があったのは中学生(大阪の公立中学。田舎ではない)のとき。

発端は、最初の中間試験の数学でいきなり満点を取り、全科目の平均点も90点越えしたことです。その時以来私は周りの人から「あの人は私たちとは違う」という扱いを受けるようになりました。特に未だにトラウマなのは、中3のときに、同級生の女の子が私に対して敬語で話していたことですね。机の中にゴミが入っていたり椅子がなくなっていたりといった積極的加害もありましたが、これは無視すればいいだけです。しかし相手に自分一人だけ対等に扱ってもらえないというのは自分ではコントロールできる事柄ではない(無視するわけにはいかない)ので、かなり辛かったという記憶があります。

あなたとは違うんです」は、相手が自分を下に見てても上に見てても、やられる方からしたらどっちもつらいんですよね。

こんなことがあったので、中学卒業時には入学時と比べて少し成績が悪くなっていました。



さて、「学校で勉強ができる子がいじめられる理由」についてですが、この議論が錯綜する理由はおそらく「誰が」いじめるのかという点をごっちゃにしているからです。タイトルのように「いじめられる」という受身形で議論されるものですから、日本語の場合「誰によって」という部分が捨象されてしまうのですね。

というわけで、「勉強ができる子をいじめるのは誰か。そしてそれはなぜか」という観点で議論を進めてみようと思います。

同級生がいじめる場合


このケースが最も多いと思いますが、同級生が勉強のできる子をいじめる理由はただひとつ。
嫉妬です。つまり自分より高い能力を持っている者を自分のレベルまで引きずり下ろそう、勉強で勝てないなら他の部分で貶めてやろうという心理です。

しかし「自分より高い能力を持っている者を引きずり下ろそうという心理がいじめる理由」と考えるならば、

なぜ、かけっこが速くてもいじめられないのに、勉強ができるといじめられるのだろう?
「勉強ができる」という蔑称


この理由がわからないようにも思われますが、私は以下のように説明します。

1つ目の理由は、かけっこが速い=運動ができる子は一般的に力も強いので、面と向かっていじめると返り討ちに遭うから。
2つ目の理由は、運動ができる=かっこいいと素直に考える傾向が、特に低年齢の子どもにはあるから。逆に勉強ができる=かっこいいという式は必ずしも成立しません。アメリカにおけるジョックとナードの関係の背景が、たぶんこれです。
3つめの理由は、学校という組織においては勉強ができる=試験の成績がよいという唯一かつ絶対的な判断基準が確立しており、「運動ができる」ということはあまり重要な問題ではないから。
この点については少し詳しく書いてみます。学校においては親からも教師からも「テストでいい点を取れ」という圧力が常にかけられますから、生徒も試験で点数を取ることが重要だと考えます。その結果、勉強ができる=試験で点数を取れるということが、学校という組織における絶対かつ唯一の基準となり、試験で点数を取れる人間はこの組織の中では「能力が高い」と評価されることになります。逆に試験で点数を取れない人間は即この組織の中では「能力が低い」と評価されます。
さらに、試験の点数以外の要素はあまり評価されません。普段の態度などは同じ点数の複数人に差をつけるといった場合にしか見られないのです。

さて、「運動ができてもいじめられない理由」についてです。
運動ができるというのは所詮体育という数ある科目の中の1科目で評価されるというだけです。そして運動ができたところで、将来の受験という点取りゲームにはほとんどいい影響はありません。したがって試験で点数を取れるということ「のみ」が価値を持つ組織においては、運動ができるということは嫉妬するに値しないのです。
学校という組織においては「別に運動なんかできなくても勉強ができれば・・・」は言えても、「別に勉強なんかできなくても運動ができれば・・・」とは言えないという違いでしょうか。


以上、同級生が「勉強のできる子をいじめる理由」はすべて嫉妬で説明できるよ、というお話でした。

教師がいじめる場合


幸いこれまで素晴らしい先生に巡り会えたせいか、私自身は教師から直接「勉強ができる」ことを理由として不愉快なことをされたことはありませんし、そういうことをされている人を見たこともありません。ですので、以下は完全に推測になりますが、教師が「勉強のできる子」をいじめる理由は同級生のそれとは異なるように思われますので、以下に書いてみます。


教師が勉強のできる子をいじめる理由は、嫉妬ではありません。明らかに自分より能力が低いとわかっている者=生徒に対して嫉妬することは通常有り得ないからです。(100年に1人の天才とかなら話は別ですが)
教師がいじめる理由は、おそらく「勉強ができる子」は自分の世界観に反する存在だからです。世界観というのは少し大げさかもしれませんが、たとえていうなら小学1年生の担当教師にはその教師が持つ「小学1年生観」というものがあって、小学1年生はこの程度までしかできないという考えがあるにもかかわらず、「勉強ができる子」はそれを超えたことをしてしまう=自分の世界観に反することをしている→自分の世界観に合うような子どもになるよう叩くという思考です。

これは別に教師に限った話ではありません。たとえば親。
ある分野に突出した才能を有する子どもがいたとしても、その親は自分の持つ「子ども観」と照らして「この子は普通ではない」と判断し、無理矢理「普通」の方に矯正する。よくある話です。もっとも「普通」の方に矯正する理由は「自分の考えに反するから」だけではないと思いますが、「自分の考えと違うものは全て間違い」と考える人は結構多いので、教師が勉強できる子をいじめる理由として以上のように推測するのはあながち的外れではないように思います。

まさしくその通りですね。勉強ができるのは子どもらしくないんですよ。
勉強を遊びの一つだと思えない人たちが教える側に回るとどうなるか


この指摘は同じ趣旨だと思います。

「できる人」になるための教訓


さて、「勉強ができる人をいじめる心理」というものを私なりに分析してみたわけですが、そんなことだけを考えてみたところで建設的な結果は得られません。職場に「自分よりできる人」がいるシチュエーションというのはよくあるものですから、そういう場合にどうすればいいか、私なりに考えてみたことをまとめてみます。


会社内で昇進して部下を持つようになると部下が自分より優秀、ということがあります。そのような場合でも、上司としてはきちんと仕事をマネジメントする必要があります。自分より「できる」からと嫉妬心に駆られ、立場にものをいわせていじめたりするのは論外です。

そこでどうすればいいか、というのが、以下の3点。

1.自分より高い能力を持っている人に対しては、素直にその能力を認める
 (ただし扱いは他の人と同じにする)

2.その能力を認めていることをその人に伝える
3.その能力を活用するにはどうすればいいか(その人は何ができるか)を一緒に考える


以上のプロセスはどれも結構重要で、おそらく2番が一番実行されずに終わるものかと思いますが、本人にその能力を認めて難しい仕事をさせたとしても、能力を認めていることを伝えないと本人はなぜ自分だけ他の人より難しい仕事をさせられるのかわからないので、不満に思う(≒いじめられていると考える)可能性があります。もっとも、難しい仕事をさせられている=期待されていると考えるのが通常ですから、2のプロセスを踏むことはよりベターということになるでしょうか。


とりあえずは以上です。ぜひ皆さんのご意見もお聞かせください。

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