答えは、自分の中にある。


わが子を自分探し病から守る 前編 より。


このエントリーを読んで思ったこと。


この増田はなぜ『自分探し』が問題なのか(正確には問題のある『自分探し』が何か)が分かってない。

あなたに漠然とした質問をひとつします。

深く考えずにとりあえず答えてみてください。

「答えはどこにあると思いますか?」

本当に漠然とした質問で戸惑ってしまったかもしれません。

でも、答えてください。

反射的に出てきた言葉でいいので何か答えてください。

何となく決まり文句で出てきた言葉でいいので答えてください。

答えましたか?

これは自分探し病にかかっているかどうかをチェックするテストです。


「自分の中にある」と答えたあなた!自分探し病にかかっています。


僕はこの質問に、自信を持って「自分の中にある」と答えました。
なぜなら、

僕にとって答え=「自分」が正しいと思うことであり、「自分」が正しいかどうかは自分が身の回りから得た経験に基づいて常に考えなければならないことだからです。


もし答えが自分の中にあると言う人がすべて『自分探し』病なのだとしたら、社会科学系の学者はみんなこの病にかかっているのでしょうか?

例えば法律学について考えてみましょう。
法律学では条文の解釈を巡って学説が真っ二つに分かれていることがよくあります。なぜならその異なる解釈それぞれについて「自分の考えが正しい」と考える学者がいるからです。学説が真っ二つに分かれる場合というのは、どちらの説を取っても結論があまり変わらない(=好みの問題)か、結論が異なっても何を妥当と考えるかが異なるときです。
もちろん両方とも理論武装はしているのですが、なぜ見解が異なるかと言えば、究極のところを突き詰めていくと、一方の解釈を取るのは「『自分』が正しいと思う」からであり、他方の解釈は「『自分』は正しくないと思う」からなのです。

したがって、「答え=『自分』が正しいと思うこと」という僕の前提が正しければ法律学者はみな『自分探し』病にかかっているということになります。


しかしこの結論は、やはり違和感をぬぐえません。

『自分探し』はなぜ悪いのか?(問題のある『自分探し』とは何か?)


実はつい先日、「幸せとは何か?」について考えてみる。というエントリーで書いたところなので、手前味噌のようで気恥ずかしいですが、引用してみます。

かつて(もしかしたら今も)「自分探し」というものが流行りました。僕の理解では「自分探し」とはこのようなものです。

「自分はもっとできる人間のはず。しかし現在の自分はやりたいことができておらず不満。だから自分というものを本当に発揮できるところを(または本当の自分を)探すんだ」

この考え方の根底に流れているものは、

  • 自分の潜在能力への根拠のない自信。
  • 自分の能力のなさを含めた現実は見ないふり。(もしかしたら自分には能力がないのかもという現実から逃げる)
  • 何かは分からないけどいつか自分が望む状態を達成できるという確信はなぜかある。
  • その「望む状態」は、大体他人の成功を参考に漠然と思い描いている。
  • しかしその状態を達成するために「今、自分が何をすればいいのか」は考えず、きっと自分というものを発揮できる世界があるはずだと考えていろんなことをやってみる(もしくは考えるだけ)。


こうじゃないかというのが、僕の観察結果です。


自分探しの一番の問題点は何かといえば、自分の能力が足りないなどの現実から目を背けていることだと思います。
逆に言うと、きちんと現実に目を向け、その現実に基づいた上で理想を追い求めるのならば、普通それは自分探しとは言わないんじゃないでしょうか。*1


増田も実はこの点については気づいてはいるんですね。

私たちが探し求めている「自分」というのは、結局のところ「存在意義のある自分」なんですよね。


「存在意義のある自分」というのは、おそらく「周りに認められている状態の自分」と言うことです。
いわゆる「間違った」自分探しをしている人は、自分がなぜ今周りに認められていないのかについては考えずに、周りに自分を認めるよう要求します。恋愛で言えば、「理想の恋人」=「自分のすべてを分かってくれる人」ということになるわけです。

そうではなくて、

「大切にしようと決めた人と、お互いがお互いにとって大切であり続けるためにもがき続けること」でしか手に入らないものなのです。
あくまで、世界のすみっこで生きている個人同士が、その存在の小ささを受け入れた上で、お互いの存在価値を認め合って、それに見合った努力をし続けるということなのです。

なんだと増田は言うわけです。

蛇足1

「答え(=「存在意義のある自分」)は、どこにあると思いますか?」

という質問に改めて答えるならば、「大切な人と自分との間」にあるといったところでしょうか。


答えは、「『大切な人と自分との間』にある」と考える自分の中にあるんじゃないでしょうか。


それ以前に、「答え」みたいな抽象的な用語をなぜ「大切な人との関係」に限定してるのかは疑問。
したがって、人との関係についてしか述べていない わが子を自分探し病から守る 後編  は、当初の問題設定からすればあまり意味はないんじゃないですかね。

蛇足2


宗教にはまる人→「自分が正しいと思うこと=その宗教の教義」な人


しかしこの増田がどうも宗教くさいと思えるのは俺だけだろうか・・・

*1:ただし自分探しを自省すること、とか考えること、というように定義するならば、その範囲はめちゃめちゃ広がります