「幸せとは何か?」について考えてみる。


幸せ。

よくこの言葉を説明するのは難しいといわれますが、この言葉自体を定義するのは難しくありません。

幸せとは、「自分が本当にやりたいことができている状態」


このように定義すると、逆に不幸についても定義できます。

すなわち不幸とは、

  1. 自分が本当にやりたいことができていない状態
  2. 自分が本当にやりたいことが分からない状態


のことです。

1.自分が本当にやりたいことができていない状態


この類型に属するのは、前提として「自分が本当にやりたいこと」は自覚できているけれども、何らかの障害があるためにそれを実現できていないという人です。
この障害とは、例えば突然の事故であったり、自分以外の人の無能力だったりします。

ちなみに僕が弁護士を目指した理由のひとつは、一般的に法律トラブルというのは個人の力ではどうしようもないことが多いけれど、法律の専門家はそのようなトラブルを解決して依頼人がまた幸せな状態に戻る手助けができるからです。
なおここから、弁護士は依頼人の言うことに漫然と従うのではなく、真に依頼人が望んでいることは何かということを見つける能力を身につけなければならないと言うことができます。


この類型に属する人はその障害さえ取り除けば(ただし取り除けない障害もありますが)よく、また僕の経験からですが、数としてもそこまでは多くないように感じます。


問題なのはもうひとつの方です。

2.自分が本当にやりたいことが分からない状態


今の世の中に最も数が多く、かつ深刻なのがこの類型だと思います。

「将来の夢は何ですか?」と聞かれても即答できない。
もしくは漠然とイメージがあったとしても、それを本当に実現できるとは思えない。

こんな人が世の中の圧倒的多数を占めているように思います。

「自分はどうすれば幸せになれるのか。」
「自分が本当にやりたいことは何なのか。」
「何かやらないといけないとは思うけれど、自分には何ができるのか。」


幸せを定義するのは簡単ですが、これらを知ることが難しい
のです。

3.自分の幸せを知る方法


ではどうすれば自分の幸せを知ることができるのでしょうか。


答えは、「とりあえず色々やってみて、それが自分が本当にやりたいことかを常に自問自答するしかない」です。


幸せを「自分が本当にやりたいことができている状態」と定義するならば、実際にやってみて、それに対して自分がこれは本当にやりたいと思えるかを検証してみるしか幸せを見つける方法はありません。


この構造は、学校の勉強によく似ています。

学校の勉強は、何となくやらないといけないのは分かっているけれども、何でやらないといけないのかは勉強している間はよく分からない。
でもしばらく続けていると、徐々に何かが分かってくる、
そして修めたときに、やっと勉強の価値に気づく。


幸せもそうなんです。「やってみなけりゃ、分からない。やってみてから何が幸せなのかに気づける」のです。

4.自分探しをしていても幸せにはなれない


かつて(もしかしたら今も)「自分探し」というものが流行りました。僕の理解では「自分探し」とはこのようなものです。

「自分はもっとできる人間のはず。しかし現在の自分はやりたいことができておらず不満。だから自分というものを本当に発揮できるところを(または本当の自分を)探すんだ」

この考え方の根底に流れているものは、

  • 自分の潜在能力への根拠のない自信。
  • 自分の能力のなさを含めた現実は見ないふり。(もしかしたら自分には能力がないのかもという現実から逃げる)
  • 何かは分からないけどいつか自分が望む状態を達成できるという確信はなぜかある。
  • その「望む状態」は、大体他人の成功を参考に漠然と思い描いている。
  • しかしその状態を達成するために「今、自分が何をすればいいのか」は考えず、きっと自分というものを発揮できる世界があるはずだと考えて、いろんなことをやっている(もしくは考えるだけ)。


こうじゃないかというのが、僕の観察結果です。


この自分探しというのは、上に書いた幸せを見つける方法と同じじゃないか、と思うかもしれません。
しかし決定的な違いがいくつかあります。

「自分探し」をしている人の特徴は、以下の通りです。

「自分がやりたいことができる場所がどこかに用意されていると考える」
「現実から目を背けている」
「自分のやりたいこと」は、他人の成功が基準


違います。

幸せは誰かが用意してくれるものではなく、自分が見つけるものです。
幸せになるためには、現実を、特に自分をどう変えるかを考えねばなりません。
自分のやりたいことは「自分が見つける」のであって、他人の成功をまねたところで意味はありません。


なお、「お金を稼ぐ」というのは、「お金を稼ぐこと自体」が本当にやりたいことでない限り、幸せの内容にはなり得ません。なぜなら、お金というのは性質上何かを買うためのものであり、あくまでその「何か」というのを実現するための「手段」でしかないからです。ただ、自分が本当にやりたい何かをするためにお金が必要ならば、当面の目標をお金を稼ぐことにするというのは当然ありです。


しかし「お金を稼ぐ」ことを目的化してしまった人は、金持ちになったあとに人生の目的を見失い、キリスト教なんかに入信したりする例が少なくないようです。

5.学生時代にしないといけないこと


大学で教授がよく「学生時代は遊びなさい。」というようなことを言います。
もう少しちゃんと説明しろよ、と思うのですが、この言葉の意味は自堕落にだらだらと寝て過ごしなさいということではなく、「とりあえず何かやりなさい。今までやったことのない、そして学生時代にしかできないことをやりなさい。」ということです。


就活を始めてから自分が何をやりたいのかを考えているようでは、遅すぎです。就活を始める前に大体自分はこんなことをしているときに幸せを感じることができるな、という分野を探しておいて、就活の時に実際の仕事はどんなものか、自分が抱いているイメージとどのくらい違うのかをすりあわせるのです。

6.憲法の定める幸福


憲法13条は、日本国憲法の中で最も重要な条文だといわれています。なぜなら、憲法の究極の目的は「個人の尊重」にあるからです。国民主権だとか基本的人権の尊重だとか平和主義というのは、すべて個人の尊重を実現するための手段に過ぎません。

憲法13条  すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。


この「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」というのが幸福追求権と呼ばれるものですが、この権利は国政上最大の尊重を必要とすると定められています。これは、幸福追求権が「個人の尊重」を実現するために必要不可欠だからです。
憲法13条は、国民がはたして自分がどうすれば幸せになれるかを模索することを、国家が邪魔してはならないと規定しているのです。


余談ですが、すべての法律の中で「幸福」という言葉を使用しているものはたった3つしかありません。

高齢社会対策基本法
国民の祝日に関する法律
・学校教育法
(法令データ提供システムの法令用語検索を使用)

これに憲法を加えて4つです。(憲法は法律ではありません)

7.まとめ


幸せは、待っていればいつかやってくるというものではありません。色々と模索しているうちに、「あ、これが自分にとって幸せなことなんだ」と気づくものなのです。


とりあえずやってみる


これが幸せになるための第一歩なんじゃないかと思います。



最後に蛇足ですが、「自分がやりたいことは自分の力だけで見つけろ」というのは、少し酷であるように思います。義務教育の間に「自分が本当にやりたいこと」を見つけられるようなカリキュラムを組むのが、今の教育には必要なんじゃないでしょうか。


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