憲法に関するよくある誤解

私自身は、憲法というのはあくまで「国家が国民に対してするべき約束」に留めておくべきで、その逆は下位の法でやれば充分と思っているのだけど、日本国憲法は結構権利だけではなく義務に関しても小姑なのですね。

本当は怖い日本国憲法 - 404 Blog Not Found


dankogaiは多くの人に影響力を持つアルファブロガーだけれど、憲法についてはよく誤った言説を広めているので、これはそろそろ勘弁してもらいたい。


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関連エントリー憲法について知ったかぶりをしている識者を見破る3つのポイント

よくある誤解その1〜憲法は国家が国民に対してする約束・・・ではない〜

私自身は、憲法というのはあくまで「国家が国民に対してするべき約束」に留めておくべきで、


日本国憲法の前文にはこうあります。

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。


そう、日本国憲法(に限らずおよそ憲法というもの)は、国民が国家に対して守らせる約束であって、国家が国民に対してするべき約束ではないのです。



この誤解が次の文言に現れます。


よくある誤解その2〜憲法は法律の仲間・・・ではない〜

その逆は下位の法でやれば充分と思っているのだけど、


「その逆」というのは、前後の文脈から、「約束」を超える部分=義務を課すという意味かと思われますが、この国民に対して義務を課すというのはもともとdankogaiがいうところの「下位の法」である法律がやっていることで、憲法はやっていません。
そもそも「下位の法」という表現自体が、どうも憲法というものを誤解している証左のように思われます。

よく憲法と法律を区別せずに同じ次元のもの(憲法はちょっと偉い法律・憲法も法律の仲間)と理解されていることがあるのですが、憲法と法律は別次元のものです。

上に書いたように、

憲法は国民が国家に対して義務を課すもの
・法律は国家が国民に対して義務を課すもの

であり、憲法と法律は完全に方向性が逆です。憲法に反する法律を定めることはできない(憲法の最高規範性)という意味では法律をもって「下位の法」ということはできないことはないですが、dankogai氏はどうも「憲法は法律の偉いもの」という意味で使っているように思われます。


憲法は、決して「法律の親玉」ではありません。

以上のことはdankogai氏が書評していた伊藤真の『憲法の力』にも書かれていたはずだけれど・・・
本当は読んでない理解できなかったんでしょうか?

(ちなみに上記の『憲法の力』の書評で天皇に関する1条〜8条は法律で定めるべき、と書いていますが、そうすると例えば、天皇参政権を否定した憲法4条を内容とする法律は、国民(天皇)の権利である参政権を否定するわけですから、思いっきり憲法に反することになります。天皇に関する規定を法律で定めてしまうと違憲になってしまうから、天皇に関する規定は憲法に書いてあるのです)

よくある誤解その3〜憲法には国民の義務は書かれて・・・いない〜


以上は憲法の基本書には必ず書いてあることですが、以下はやや私見が入ります。

日本国憲法は結構権利だけではなく義務に関しても小姑なのですね。


上に書いたように、日本国憲法は「国民が」宣言したものです。

現在の社会を維持するためには税金と労働が必要ですし、将来の社会を作るためには子どもの教育が必要です。

したがって、日本国憲法の義務規定は、今と将来の社会のために納税・労働・教育という負担を引き受けることを国民が決意したという「意思の表明」と考えるべきです。


単なる意思の表明であって、「義務」ではないと考えられる証拠として、日本国憲法に書かれている義務というものが法的に日本国憲法を根拠として課せられることはないということが挙げられます。

第26条2項 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。
第27条   すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。
第30条 国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ。


教育の義務と納税の義務のところをよく見てもらえばわかりますが、「法律の定めるところにより」と書かれています。
そう、あくまで国民に法的に義務を課すのは法律であって、憲法ではないのです。
これらの規定は「いずれ国民にこういう義務を課す法律を作るという予告である」という学説もありますね。

働けるのに働かない人にも文化的で最低限度の生活を営む権利はあるのか?


こちらは上述のdankogai氏の引用した元エントリー。

その上で思うのは、25条は「すべて国民は」と言っているのであり、「本当にまじめに働こうとしている国民は」などとは言っていない、ということです。「すべて」とは、本当に「すべて」であるはずです。うまく正規雇用につくことができず、住居も職も失ってしまった人々の中には、「本当にまじめに」やってた人達もいるでしょうが、そうでない人もいるでしょう。しかし「すべて」の人々に、人間らしく生きる権利がある。そう言わねばなりません。先の見通しが甘かった人も、愚かものも、堪え性がなくすぐに仕事をやめてしまう人も、身体の弱い人も、仕事を選り好みする人も、怠け者も、努力の足りない人も、勇気がない人も、人生設計など何も考えていない人も、マナーの悪い人も、他力本願の人も、あらゆる人が人間らしく生きていけるようにするべきです。本当にすべての人が「人間らしく生きる」ことができる社会を作るのが政治の役割でなかったとしたら、一体何のために政治があるのか。

すべて国民は - good2nd


もう一度3つの義務の条文を見てみましょう。

第26条2項 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。
第27条   すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。
第30条 国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ。


このうち、労働の義務の条文にはひとつだけほかの義務と違うところがあります。

そう、「法律の定めるところにより」という文言がないのです。これは法律によって労働について義務を課すことはせず、ただ宣言するにとどめたものと考えられます。
しかしだからといって働かなくていいということではありません。この規定の背景には、主権者たる国民は国家を維持するために自己の生活の基盤は自分自身で築くべきという観念があるからです。

手元にある基本書から引用します。

(勤労の義務について)勤労できる能力・資格・場所があるにもかかわらず、勤労する意欲・意思がなくて勤労の義務を果たさない者は、社会保障などの国家による救済を受けることができない場合があるという法的効果はあると言えよう。
憲法2 基本権(第2版)』初宿正典 483頁


ちなみに、憲法解釈上「すべて国民は」という文言はあまり意味がなくて、人権が国民に認められるか外国人などにも認められるかは、その人権の性質によって決まる、という考え方が通説です。(もちろん、「すべて国民は」という言葉がある人権が国民に保障される人権だ、という説もあります。)

まあ、これは今回の話にはあまり関係ありませんけどね。


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