「勉強ができる」と「頭がいい」の違い〜本当に大切なこと〜


ご無沙汰しております。法務兼総務兼人事担当の3月は大忙しです。


さて、ずいぶん長々と書いてきましたが、ようやく「勉強ができる」と「頭がいい」の違いというテーマも、ようやくこれで完結です(たぶん)。
このエントリーでは「頭がいい」とはどういうことか?という点と、「勉強ができる・頭がいい」論の本質的な問題点について書こうと思います。

「頭がいい」とはどういうことか?


結論から書きます。


「頭がいい」とは、ある状況において最も適切な行動を選択し、最も望ましい結果を出せること、です。


具体例を挙げましょう。

上手にプレゼンができる人は「頭がいい」と言われます。
上手にプレゼンができる人は、プレゼンにおける「最も望ましい結果」というものが何かということが分かっています。それは、「相手にメッセージを伝えること(そして相手が行動に移すこと)」です。もちろんこの結果を達成できればいいのですが、プレゼンだけのために何十時間も準備に時間をかける人は「頭がいい」とは言われません。つまり、結果を出すために取った行動が適切=できるだけ少ない時間で準備ができることも大切です。

「頭がいい」人のプレゼンの典型例がよくわかるのが、このエントリーでしょう。

・ 「しゃべりはプレゼン資料と一致させる」と固く誓う
・「プレゼン資料は事前に配り、出し惜しみしない」と固く誓う
・ 「資料のレイアウトはワンパターンを貫く」と固く誓う
・「使う色は自分が使い慣れた3色まで」と固く誓う
・「文字の羅列は死んでもやらない」と固く誓う
・ 「成功したプレゼンは骨の髄まで使いまわす」と固く誓う


私が考えるプレゼンを良いものにする「6つの誓い」- 中小企業診断士 和田伸午のおもしろビジネス放談


1番目から5番目は相手にメッセージを伝えるために気を付けるべきこと、そして一番下の「使いまわす」という部分が素早くよいプレゼンを準備するための工夫です。


仕事においては結果を出すことが大事、と言われます。しかし結果を出すまでのプロセスも大事です。人を踏み台にして結果を出しても、とんでもない時間をかけて結果を出しても、そのツケはいつか必ず自分や周りの人に降りかかります。「頭がいい」人は、結果を出すことはもちろんのこと、そこまでに最善のプロセスを踏んでいるのです。

なぜ「勉強ができる人は頭が悪い」と言われるのか?


「勉強ができる」人が「頭が悪い」と言われる典型的なケースは、「仲間で楽しくしゃべっているときに空気を読めない発言をする」というものです。これは上記の定義にあてはめれば、「その場にいる仲間を楽しませる」という結果を達成するために適切な行動を取る(=空気を読む)ことができていない、ということです。

ところで、上で「頭がいい」とは、ある状況において最も適切な行動を選択し、最も望ましい結果を出せること、と書きました。


そう、「頭のよさ」というのは状況によって変わるものなのです。会話における「頭のよさ」も、料理を作るときの「頭のよさ」も、仕事をするときの「頭のよさ」も、全部具体的な内容は異なります。
そして、「勉強ができる」ということは、「学校で勉強する」という状況において「試験で点数を取る」という結果をだせるという、限定的な状況での「頭のよさ」なのです。

だから「勉強ができる」人が、学校での勉強という状況以外で「頭がいい」わけではないのは当然のこと。「勉強ができる」ということと一般的な場面での「頭がいい」ということを結びつけて考えてしまっていることが、「勉強ができる≠頭がいい」論者のミスです。


「勉強ができる人は頭が悪い」と言われるのは、特にコミュニケーションを取る場面において勉強ばかりしている人がうまいことしゃべれない、という点です(もちろんこれだけではないですが)。しかし少なくとも大学の入試科目にコミュニケーション力を測るものはない以上、「勉強はできるのに、まともにコミュニケーションが取れない。だから勉強ができる人は頭が悪い」という主張は全く的を外した「頭の悪い」ものといえるでしょう。

「勉強ができる・頭がいい」論の本質的な問題点


これまで4つのエントリーで「勉強ができる」ということと「頭がいい」ということについて考えてきました。よく世間で取り上げられるテーマについて自分なりに考えてみることは、まあそれなりに楽しいものでしたが、同時に歯がゆい思いも抱かずにはいられませんでした。

というのは、「勉強ができる」だとか「頭がいい」だとかいうことはどうでもいいことだからです。


「勉強ができる人は頭がいい。」


・・・で?


「勉強ができる人は頭が悪い。」


・・・だから何?

これらの議論の最大の問題点は、「勉強ができる人は頭がいい。」「勉強ができる人は頭が悪い。」といって自らレッテルを張っているということに何の疑問も抱いていないところです。
上に書いた「勉強はできるのに、まともにコミュニケーションが取れない。だから勉強ができる人は頭が悪い」という主張には「勉強ができるならまともにコミュニケーションもとれるはず」という前提が含まれています。この前提こそがレッテル。このレッテルを当然のものとして疑わないことこそが問題なのです。

「勉強ができる・頭がいい」論で考えるべきたった一つのこと


何度も申し上げますが、「勉強ができる」ことと「頭のよさ」というものを結びつけて両者の関係を論じることにはほとんど意味がありません。大切なのは、「勉強ができる」人が持っている能力をどう活かすかです。

私の考える「勉強ができる」人が持っている能力は、すでに「勉強ができる」人の3〜4つの条件で書きましたが、一部を引用します。

CPU:「地頭力」「思考力」などと呼ばれる力。「頭の回転の速さ」とも呼ばれる。最も重要な能力。
HDD:記憶力のこと。CPUのスペックが低くても記憶力でカバーできることは多々ある。
メモリ:事務処理能力のこと。メモリが多いと一度に多くの事柄を処理できる。
バッテリー:知的体力のこと。集中力の持続力とも言い換えられる。
マザーボード:上記の4つの能力で出した結果を出力するための能力。いくら頭が良くても、答案上で表現できなければ意味がない。


「ポテンシャルが高い」というのは、以上の5つの能力全てが高い状態です。


これは「勉強ができる」人の特徴のひとつである「ポテンシャル」についてパソコンのパーツにたとえて説明したものです。「勉強ができる」人は大体以上に挙げた能力を兼ね備えています。試験の点数なんてどうでもよくて、試験で点数を取るために努力した過程で得たこれらの能力をどう活かすかが大切なのです。
「勉強ができる」と「頭がいい」の違い(「勉強ができる≠頭がいい」への反論)でご紹介した「勉強ができる」と「頭がいい」の関係をもう一度見てみてください。



「勉強ができる」と「頭がいい」が全く重ならない部分もありますが、それよりも重なっている部分の方がずっと大きいです。これは、「勉強ができる」人の有する能力は勉強以外の場面でも役に立つことが多いということを意味します。



私が「勉強ができる≠頭がいい」論者に反発する理由の一つは、勉強ができる人が持っている以上に掲げる能力さえも否定する(ような主張をする)点にあります。


高学歴の人は使えない?


それはあなたが高学歴の人が持っている能力を活かせるような仕事の任せ方をしていないからです。一連の議論を見ていると、自分のマネジメント能力の低さを高学歴のせいにしているように思われることが多々あります。まして「勉強ができる≠頭が悪い」と思っている人間の下で気持ちよく働けるでしょうか?
私はこの「従業員の能力を発揮できないマネジメント能力の低さ」は日本の組織の最大の問題点だと考えています。


管理職が管理するのは「人」ではありません。「仕事」です。
部下が持っている能力を活かして「仕事が達成された状態」に持っていくのが管理職の仕事です。
「仕事が達成された状態」への持っていきかたは、一通りではありません。任せる部下の能力によって如何様にも変わってきます。そして、任される部下としては自分の能力を発揮できる形で任された方が楽しく仕事できるというものです。


「勉強ができる」人の能力を活かして仕事がうまいこと達成されるようにするのが、「頭がいい」上司というものではないでしょうか?

ではどうすれば部下の能力を活かすことができるのか?
これはまたこれからゆっくり実践の中で検討していこうと思います。

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