裁判員制度の意義〜なぜ判決がバラバラになっていいのか?〜

前回のエントリー(裁判員制度は本当に「不公平」か?)で、「裁判官と法律の素人の判断は違うのか?」という点についての考察を通じて、結論がバラバラになる理由・なってもいい理由を考えてみると予告したとおり、このエントリーでまずアメリカの陪審制度と裁判員制度の違いから裁判官の思考プロセスを導き、そのあとで結論がバラバラになる理由・なってもいい理由を書いてみようと思います。

「法律判断なんて素人にできるはずがない」と言われる方にもぜひ読んで頂きたく思います。

アメリカの陪審制度と裁判員制度の違い


アメリカの陪審員がするのは、有罪か無罪の判断(事実認定)だけです。具体的には、事実に関する争点のみについて判断します。たとえば「この人が本当に人を殺したのか?」という点についてのみ判断します。
逆に、事実に関する判断以外の判断はしません。法令の適用もしませんし、量刑の判断もしません。ただし、陪審員の審理に裁判官は一切関与しません。裁判官の仕事は訴訟指揮・証拠の証拠能力についての判断*1・法令適用・量刑判断です。
つまり、陪審員がするのは事実認定のみです。



一方裁判員は、裁判官と同じ立場で事実認定・法令適用・量刑判断をします。証拠能力については公判前整理手続ですでに判断していると考えられるので、裁判官と裁判員の違いは訴訟指揮をするか否かという点だけと思われます。


この「事実認定」「法令適用」「量刑判断」の3つが、裁判官が刑事訴訟においてしている「法律判断」の中身です。以下それぞれについて少し説明してみようと思います。

事実認定とは


事実認定とは読んで字のごとく、どういう事実があったかを認定するプロセスです。特に被告人と検察官とである事実について見解が食い違っている場合に問題になります。たとえば殺人事件において、検察官が殺意があったといっているけれども被告人がそれを否定している場合、裁判官は被告人の現場での挙動、被害者の受傷の状態・部位、凶器などから殺意があったかどうかを認定します。正確には、事実認定には二段階あり、どういう事実があったかを認定してから、その認定した事実をどう評価できるかを認定します。この事実に対する評価をするプロセスでは、たとえば「このような事実がある。ではこの事実をどう評価すれば殺意があったといえるか?」ということを考えることになります。

事実に対する評価はひとつではありません。認定した事実をどう評価すべきかというのは判断者が自分の「常識」に照らして考えることです。法律的な知識はいりませんし、もし必要なら裁判官により説明があるはずです。従来の裁判の問題点のひとつは、この事実認定のプロセスにおいて、裁判官が容易に検察官の主張する事実を認めていたことにあります。痴漢のえん罪がそのいい例です。

裁判員制度では、裁判官と裁判員が議論をし、各人が常識的に考えてある事実が認定できるか、という判断をすることを期待されていると考えられます。

法令適用とは


法令適用とは、事実に対して法令を適用し、結論を出すプロセスのことです。具体的にはどの法令を適用するか・事実が法令の文言に当てはまるかを判断することになります。

どの法令を適用するか


これは認定した事実からでは検察官の主張する犯罪が成立しない場合に問題になることがあります。たとえば人を殺したとして殺人罪で検察官は起訴しているが、事実認定で殺意が認められずに殺人罪が成立しない場合などです。殺意=殺人の故意なく人を殺した場合は、過失致死が問題になります。刑法のどの犯罪が成立するかで刑の範囲も変わってきますし、どの文言に該当するかの判断も変わってくるので非常に重要です。ただ、おそらくこの判断は裁判官がすると思われます。

事実が法令の文言と合致するか


このプロセスを殺人罪で説明すると、

人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する。


被告人のした行為が「人を殺した」にあたるかどうかが問題になります。もし「人を殺した」といえるならば、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役という刑が下されることになります。
このプロセスがいわゆる「法律解釈」というものをする部分ですが、個人的に裁判所がどうするのか気になるところでもあります。というのは一般的に法律家が批判される対象が、この法律解釈で一般人の理解からはかけ離れた解釈をしていることにあるからです。
しかし法律というのはやはり条文を見て一般人から理解できるものでないといけないので、裁判員の「その解釈はおかしい!」という声が学説や判例を揺るがすことになるかもしれません。

条文から裁判員が「常識」に照らして法律解釈するとき、今までの司法の常識が打ち砕かれることになるんだろうと思います。

量刑判断とは


量刑判断は、事実認定によって確定された事実に基づき特定された法律の条文が定める刑から、具体的にどんな刑にするかを決めるプロセスです。たとえば殺人罪なら死刑、無期懲役、5年以上の懲役ですが、この中のどれを選ぶか、5年以上の懲役にするなら何年にするか、執行猶予をつけるかなどを決めるプロセスです。

これこそがまさに「常識」が問われる部分です。

この罪に対してどのような刑罰を下せばいいのか?たぶんこの問いに対する迷いは、裁判官と裁判員とで同じものではないかと思います。

なぜ刑がバラバラになるのか?


判断する人によって刑がバラバラになるのは、以上に見たとおり3つのプロセスのそれぞれに判断者の「常識」に基づく判断が入るからです。たとえまったく同じ事件であっても、事実認定のところで「常識」に基づく判断をした結果犯罪事実が認定できなければ無罪になりますし、犯罪事実が認定できたとしても量刑判断のところでどのような刑にするかは判断者の良心に委ねられます。
この判断は裁判官でも一般人でも変わりません。実際、似たような事件を裁判官が裁いたとしても、量刑は結構大きく振れます。これはぜひ実験して頂きたかったのですが、まったく同じ事件を異なる裁判官が裁いたとしても、その刑は裁判官によって異なるものになると思われます。

なぜ刑はバラバラになっていいのか?


これこそが元エントリの岡田さんが問題であると指摘していた部分です。裁判員制度は本当に「不公平」か?のコメント欄でも以下のように書かれています。

一番言いたいことはその通りです。
公平については誤解があります。まったく同一事件という想定の下で行われた複数の模擬裁判でバラバラな判決が出たことを批判しています。裁判員次第で判断が変わることを問題にしています。同種の事件を相場で判断するのがよいという意味では決してありません。

このコメントに対して私はこのようにお返ししました。

コメントありがとうございます。
もしよかったらこの質問に答えてみていただけないでしょうか。

「罪に対して下すべき「正しい」刑というものはあるか?あるとすればそれは何か?」

より具体的に言えば、「この窃盗犯に対してはこのような刑を下すことが『正解』」というものがあるかどうか、その『正解』とは何かということです。

「人が人を裁く」ということの意味にも通じると思うのですが、私は本エントリーの意味での「公平」な裁判で出た結論というものは、どんなものであれ「正しい」と考えます。これは決して上記質問の「正解」ではありません。


岡田さんが結論のバラツキを批判するということは、その背景には「刑事裁判における判断はばらつかない方がよい(偶然に左右されるべきではない)」という価値判断があると思われます。推測になりますが、元エントリーの文章などから察するに、おそらく「ある罪に対して下されるべき『正しい』刑がある」と考えているために、このような価値判断をしているのではないでしょうか。このように考えたからこそ、私はコメント欄で以上のような質問をさせて頂いたわけです。

これに対して、このようなコメントを頂きました。

刑という連続的なものの一点、あるいはある範囲を「正しい」とするような絶対的な基準はあり得ないでしょう。正しいと正しくないに2分できるとも思いません。
より妥当という相対的な判断しかないと思います。


「絶対的な基準が有り得ない」のならば、結論がバラバラになるのは当然なのではないでしょうか?
「妥当という相対的な判断しかない」のならば、何を妥当とするかは判断者によって異なるはずです。なぜバラバラになってはいけないのでしょうか?


以上に書いた刑事裁判における3つのプロセスにおいてはそれぞれに「常識に基づく判断」が介在するため、ほぼ確実に結論はバラバラになります。これは裁判官でも同じことです。


では、なぜ結論がバラバラになっていいのか?



それは、公平な裁判によって出された結論だからです。

前回のエントリーで「公平」とは同じような犯罪には同じような刑が科せられることではなく、すべての人に法律で定められた手続が保障されることだ、と書きました。すべての人に法律で定められた手続が保障された=公平な裁判によって裁かれ、出された結論は、どんなものであっても「正しい」のです*2
結論がバラバラになることは「悪い」=できるだけバラバラにならない方がよいという価値判断はあり得ますが、果たしてそうでしょうか?もしかするとまったく同じケースで結論がバラバラになる方が、もしかしたら「人を裁く」ということの本来の姿なのかもしれないのです。


以上を踏まえれば、岡田さんが理解に苦しんでいる以下の箇所についても、理解頂けると思います。

『(裁判官と裁判員の協働)作業の結果、得られた判決というのは、私は決して軽くもないし重くもない、それが至当な判決であると・・・』(論座07/10月号)

 つまり国民が参加する裁判員制度による判決を無条件に「至当」とする根拠不明の認識は次の例にも見られるように、この制度の推進者に共通するらしく、これを前提として裁判員制度が作られてきたと考えられます。本当に「至当」なら従来の制度より判決が収束してしかるべきです。バラバラな判決がそれぞれ「至当」である、つまり異なる「至当」がいくつもある状態とはどう理解すればよいのでしょうか、たいへん不思議な論理です。
アゴラ : 算数のできない人が作った裁判員制度 - 岡田克敏


岡田さんは「公平」の意味を「ある罪に対してなされるべきある刑がなされること」というように理解されているために「至当」というのはおかしいと言われていますが、「公平」はすべての人に法律で定められた手続を保障するということですから、法律に定められた手続に基づいてなされた裁判員裁判で出された結論は、たとえバラバラであってもすべて「至当」ということになります。

四宮教授の以下の発言についても、もう説明はしませんが、同じことがいえます。そして、四宮教授のおっしゃっていること(「国民が議論した末の結論こそ「真実」だという考え方を日本社会は身に付けていく」)は、このエントリーの趣旨と同じような意味であると思われます。

 『模擬裁判で量刑がばらつき、公平な裁判ではないという声があるが、裁判官と裁判員が当事者の意見を聴いて十分に議論した結果は、適正な刑罰だ。それがプロの裁判官の相場とずれているなら、相場が見直されるべきで国民が議論した末の結論こそ「真実」だという考え方を日本社会は身につけていくだろう』−四宮啓早大法科大学院教授(07/12/30朝日新聞)
アゴラ : 算数のできない人が作った裁判員制度 - 岡田克敏


なお、岡田さんは裁判員制度は司法に民主主義を持ち込むものだと考えておられるようですが、それは違うと思います。あくまで一般人が法律判断において「一般人の常識」に基づいて議論し、判断することに意義があるのであって、国民の平均的な結論を裁判に反映することではありません。
元エントリーの2001年6月の司法制度改革審議会の意見書第IV章の部分を引用させて頂きます。

国民主権に基づく統治構造の一翼を担う司法の分野においても、国民が、自律性と責任感を持ちつつ、広くその運用全般について、多様な形で参加することが期待される』

この文章からわかることは「司法の分野において」「国民が」「参加する」ことです。「裁判員制度の意義は国民主権を司法の場に実現する」とは書いていません。「参加する」ことに意義があるのです。


まとめおよび裁判員制度の意義


裁判員制度において裁判員に求められているのは、法律判断の各プロセスにおける「常識的な判断」です。

法律の専門家は常識に縛られています。そしてこの「常識」は、法律の専門家の世界だけで通用する常識です。しかし法律は社会通念を具体化したものである以上、その解釈適用は社会通念に沿ったものである必要があります。
裁判員制度は、この社会通念と法律家だけの常識との間のギャップを埋め、法律の専門家だけが作り上げた世界に全くの素人が参加することでその世界をぶち壊すことに意義があるのです。


もちろん今の裁判員制度には多々問題点はあります。
裁判員制度に先立って設けられた公判前整理手続は、被告人に有利な証拠をこの手続の中で提出できなければ、あとで提出できなくなるという危険性があります。また、岡田さんが指摘されるように3日で終わらせるとなると、十分に審理されぬまま判決が下される可能性もあります。さらに、確実に裁判官の手間が増えるにもかかわらず、それに対する手当は何もなされていません。司法試験の合格者を増やしたのなら、せめて新司法試験の1期生が判事補から判事になるときまで待ってもよかったと思うのですが・・・


ともあれ、もう始まってしまった裁判員制度。批判ばかりするのではなく、この機会に司法や法律というものについて考えてみるといかがでしょうか。
裁判というものは司法権=主権の行使であり、日本において主権者は国民です。本来人を裁くというものは主権者たる国民の仕事なのですから「素人が裁判なんてやる必要はない」というのは、おかしな話です。

このエントリーが議論のきっかけになれば幸いです。

*1:証拠が、法廷で証拠として採用するための条件を備えているかの判断

*2:なぜ公平な裁判によって出された結論はどんなものであってもよいのか?これは、近代法が私的制裁を禁じ、罪に対する処罰を公平な裁判によって決めるということとしているからです。いわば、共同体における合意が成立しているから、と考えられます